いま、教師に求められるもの

上越教育大学 木村吉彦

 2000年5月13・14日の両日、私は、長岡市内で開催された「キャンプディレクター2級移行講習会」に参加した。これまで社団法人日本キャンプ協会によって認定されていた「キャンプ初級指導者」資格を、文部大臣認定の「キャンプディレクター2級」資格に移行させるための講習である。いわば私的な資格であったものが、公的な意味を持つ資格へと変わるための研修であった。
講習終了後に提出を求められた課題の一つに「いま、野外活動指導者になにが求められているのか」というものがあった。私は、今回の講習において知ることができた「日本キャンプ協会」の「4つの期待」を前提にしながら、 自分の指導経験も踏まえこの課題に取り組んだ。書き進めるうちに、この課題はなにも「野外活動指導者」にのみあてはまるものではなく、いわゆる「指導的立場」にある者、とりわけ私たち「教師」にいま求められている資質と共通するものであると考えるようになった。
 前置きが長くなったが、小文は「日本キャンプ協会」に提出したレポートの内容をもとに、その内容をさらに敷衍したものである。従って、はじめに「野外活動指導者」に関する記述があり、次により一般化した「いま、教師に求められるもの」を論じるというスタイルを取ることをお許し願いたい。

1.感動場面の提供
 キャンプを初めとする野外活動に参加する人たちは、老若男女を問わず「感動」を求めてやってくるに違いない。大自然に触れることで湧き起こる感動、これまで全く見ず知らずであった人々との出会いから生まれる感動、その人々と力を合わせて活動し何かを成し遂げたことによる感動等々である。 私たち野外活動指導者は、どうしたら参加者に感動を提供できるかをまず考えなくてはならない。
 しかしながら、一方で私は「体験の脆さ」について考える。つまり、体験は、喜びや感激を生みやすいと同時に、嫌悪感や恐怖感とも容易に結びつくからである。例えば、私自身カヌー活動において「チン(「沈」から来ていると思われる:カヌーごとひっくり返る体験、必須項目)」を体験した。その時、めがねを落とすのではないかという恐怖感(めがねをひもで身体につないでいたにもかかわらず)が先にたち、なかなか思い切ってひっくり返ることができなかったことを覚えている。
 私たち指導者は、参加者(とりわけ子ども)の恐怖心を取り除く努力をまずしなくてはならない。さらには、体験のさせっぱなしではなく、その体験の意味を考えさせる手だてを持たなくてはなるまい。小学生であれば、活動を振り返らせ感想を聞き出すことで感動を確認したり、恐怖心や嫌悪感を和らげることができるであろう。中学生以上であれば、レポートを提出させるなどして、体験したことの意味を考えさせる機会を作ることができるであろう。
 より一般的な指導場面、たとえば教育・学習場面を考えたとき、この「感動場面の提供」はどういうことを意味するのであろうか。私は、学習者に「未知の世界」との出会いを提供することではないかと思う。それは、いままで知らなかった世界を知ることができた「新しい自分」との出会いでもある。「何かを学ぶこと」によって湧き起こる感動とは未知の世界に触れた喜びであり、驚きであり、その喜んだり驚いたりしている自分に気付く体験である。子どもたちのみならず私たち人間は、いつも「新しい自分」と出会いたがっているのである。教師は、そのような場面を学習者に提供しなければならない。

2.知識・技術に基づく支援
 指導者である以上、参加者よりも知識・技能において勝っていることは当然のこととして求められる。しかしながら、すべての分野(医学的なことから鳥や草花の名前まで)において豊かな知識とそれを生かした技能を獲得することは容易ではないし、そのような指導者を求めることには無理があろう。そこで、私たちにできることは「個性」を生かした指導者になること、つまり「自分の得意分野」をもち、それを中心に参加者と関わり、楽しむことである。たとえば、私の場合、ゲームやレクリェーション活動が好きであるので(決して得意とは言えないかもしれない)、この活動を中心に参加者を指導していきたい。事実、大学の「体験学習」の授業や「(学生の)合宿研修」などの場において、学生にゲームを紹介し実際に一緒に楽しんでいる。
 もちろん、ロープ結びをはじめ、野外活動とりわけサバイバルキャンプ等で必要とされる技術も数多くあることは承知している。それらについても少しづつ技術を身に付けながらも、自分の得意分野を磨き参加者に提供することでより充実した野外活動を指導できるようになりたいと思っている。
私たち教師にとって、専門的な知識や技能の必要性は言うまでもないことであろう。しかし、私は、専門的な知識の豊富さも去ることながら、単なる博識ではなくむしろ視野の広い、総合的な判断力の持ち主であることを目指したいと思っている。知識や技能を持っているということは教師にとって必要条件ではあっても十分条件ではないのではないかと思うからである。古代ギリシャにおいて「教養」とは、「一人の人間としてその生き方を問われたときに、事柄を適切に判断する力」であり、「バランスのとれた判断を下す助けとなるとき、初めて博識は本物の<教養>の名に値する」と考えられていたという(廣川洋一『ギリシャ人の教育−教養とはなにか−』[岩波新書])。まさに、「生きて働く力」としての知識・技術に基づく学習者への支援こそが、いま求められている。

3.自然保護の精神を伝える
 先ほど「大自然に触れることで湧き起こる感動」ということを述べたが、この感動をもとに参加者には自然に対するさらなる興味・関心を喚起したいものである。
自然への興味・関心は、「自然をもっと知りたい、もっと深く関わりたい」という「思い」を参加者に抱かせるに違いない。そして、講習でも言われたように、「知ることによって愛するようになり」、「愛することによって守りたいと思うようになる」であろう。
 これは、対自然だけの問題ではないと思われるが、この「触れること・知ること・愛すること・守ること」は、私たちがある対象と関わるときの「心の自然な流れ」であると思う。従って、私たち野外活動指導者は、参加者がまず「自然を好きになる」ようなプログラムを組み、「触れ、知り、愛し、守り」たくなるようなメニューを考えなくてはいけない。
 一方、教育活動では学習者に何を好きにさせればいいのであろうか。私は、「人間」であると思う。人間への興味・関心を沸き立たせ、「人間のことをもっと知ることによって人間を愛し、大事にしたい」という思いを抱かせるような教育ができればいいと思う。ここでは、まず「自分」を好きにさせたいと思う。特に幼児や低学年児童と接していると、「僕は・私は、こんなことができるんだ、こんなことが得意なんだ」と言えるようにしてあげることが大事かなと思う。「自分は有能である」と思えるチャンスをたくさん作ってあげたいものである。
 それは、アイデンティティ(identity:自己同一性・自分は一貫して自分であるという思い)と同時にセルフ・エスティーム(self-esteem:自愛心・自尊感情・自分を大事にしたいという気持ち、自分には生きる価値があるという思い)の形成に深く関わってくると思う。いままで、日本の教育は、「他人に迷惑をかけるな」ばかりが強調されすぎていたのではないか。もちろん、他人に迷惑をかけていいと言うのではない。逆に「他人に迷惑をかけなければ何をやってもいいのか」と問いたいのである。援助交際で補導された女子高生が言ったという。「私は、誰にも迷惑かけていない。おじさんとだって合意のうえだし、お金も相手がくれるって言ったからもらってやっただけ。なぜこんな所に来て説教されなくちゃいけないの?」私たちおとなは、この質問にどう答えられるであろうか。それを解くカギの一つがセルフ・エスティームの形成にあると、私は考えている。

4.社会性を考える機会とする
 昨今、「群れ遊び」の消失等により、子どもたちの「社会性」を錬磨する機会が激減している。かつて、家庭や地域において確保されていた「社会性」を身に付ける機会は、今や学校教育の中の「体験学習」や、地域の社会教育活動(公民館の地域探検活動など)によってあえて作り出さなくてはならない状況である。
 この実態を嘆いてばかりいても始まらない。むしろ、このような状況だからこそ、私たち野外活動指導者は、子どもたちの「社会性」を錬磨する機会として野外活動を大いにPRし、また、みずからもそのようなプログラムを提供すべきであろう。そこでは、挨拶から始まり、他者への感謝(をきちんと言葉で表現する)、集団生活のルールについての学習等々、様々なことが体験を通して身に付けられるであろう。
私自身は、プロジェクト・アドベンチャー(P・A)の活動にも参加したが、参加者全員で一つの課題を達成したときの喜びは、今でもありありと覚えている。基本的に「社会的な体験」の少ない子どもたちである。P・Aの始まりが学校不適応児への「療育」であったとしても、その応用範囲は相当広いと考えている。
ここで「社会性を考える機会」とは、より敷衍して考えれば、先の「自分を好きになる」ことに対して、「他者を好きになる機会」の提供を意味すると考えられる。自分と違う感じ方や考えのクラスの友達がいる。自分とほぼ同じ経験をしたにもかかわらず、同じように考えてはくれないし、自分の思うようにならない他者の存在がある。しかし、それは「排斥」の対象であってはならない。他者の一人一人が全部「自分」であって、それぞれがかけがえのない存在であることに気付く大事さを思わずにいられない。青少年の凶悪犯罪のことを思うと胸が痛む。「自分の大事さ」が「他者の大事さ」にまで結びつかなくては、本当の意味の「個人」を育てたことにはならないのである。
 「いま、野外活動指導者に求められること」と「いま、教師に求められること」を4つの観点から論じた。これら4つの事柄は、すべて「私たち」の生き方にはね返ってくる問題ばかりである。要は、私たち自身の人生を豊かにするような活動や日々の営みであってこそ、参加者や学習者の人生をも豊かにできるのではないだろうか。





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