石川道夫・田辺 稔編集『ケアリングのかたち』(中央法規 1998.3.)所収

第4章
生きる力の支援―生活科から地域へ

木 村 吉 彦


1.子どもたちに育っている「生きる力」―子どもの変容と生活科教育の現状―

 生活科が本格実施されてから6年目を迎えている。実施前には賛否両論、かまびすしい議論が戦わされたが、とにもかくにも「定着」の時期を迎えている。生活科設立の最大の意義は、「具体的な子どもの姿から教育を語る」という発想を、学校教育のなかに改めてもちこんだことである。それまでの学校教育は、現実には、「はじめに教科や教師のねらいあり」の発想で進められることが多かった。それに対して、「はじめに子どもあり」という発想をつよく打ち出したのが生活科である。生活科の発想は、子どもが変わることで教師が変わり、ひいては学校教育が変わることをめざしている。そこでは、子どもの変容を的確にみとることのできる学校教師が求められているのである。

1)生活科で育っている力

 それでは、実際に子どもは変ったのか、変らなかったのか、変ったとしたらどの様に変ったのか。逆に言えば、教師たちは、子どもの変容をどの様にみとっているのであろうか。
 生活科設立を契機の一つとして、これまで報告されている「育っている力」には、どちらかと言えば「個人的な資質」と言えるものが多い。たとえば、主体性・積極性(これらは、「力」というよりは前提となる意欲の部分であろう)・想像力・企画力・観察力・問題発見/解決力等である。生活科の登場によって、今まで以上に子どもたちの「個の充実」が果たされ、かつ、そのことを重視する教師が増えたことについて、私は大いに評価している。しかし、この「定着期」においてさらに重要なのは、「社会的な資質」に関する力の育ちである。「社会的な資質」とは、「かかわる力」すなわち「他者とかかわりながら自分を発揮する力」のことである。
 より具体的には、次のふたつの力である。第一に、同じ活動についてもその感じ方や興味のもち方が各自違うことに気づき、他のあり方を認める力、第二には、集団のなかで自分の課題を発見しその解決に向けて行動する力、さらには、共に育ち合おうとする力、である。第一の力をつけるには、動植物とのふれあいや仲間との共同活動・話し合いを通して自分を相対化するチャンスをたくさんつくる必要がある。また、第二の力をつけるには、仲間や教師との共同活動を進めるなかで、一人の時より楽しい体験やより充実した経験ができたという実感を積み重ねる必要がある。
 個人が集団の中で積極的に自分を発揮できるような集団づくり、さらにはひとりひとりがお互いを認め合い、共に学び、共に育ち合おうとする集団づくりの力量が、これからの教師の力量を測るバロメーターとなるのである。

2)今、なぜ「かかわる力」か?

 現代日本の子どもは、時間・空間・仲間という「三つの間」の喪失により、「自己形成空間=子どもたち同士で自ら育つ環境」を失った状況にある1)。その結果としてもたらされたものは、子どもの「かかわる力」、すなわち「ひとりひとりが上手に自分を発揮しながら他者と共に生きる力」つまりは「個人が社会的に生きる力」の衰弱である。真の意味の「自立」が他者への上手な「依存」の上に成り立つものである以上、今、日本の子どもたちは「自立」を達成しにくい状況の真っ只中にいる、と言わざるを得ない。
 このような社会状況のなかで生まれたのが「生活科」である。生活科のねらいは、究極的には「自立への基礎を養う」ところにある。「自立」を達成しにくい社会状況のなかで、「自立」の問題を真正面から取り上げる教科が登場したのである。「生きる力」が「個人が自立して生きていく力」であるとするなら、それは、「かかわる力」そのものである。従って、生活科とは「生きる力」育成を目的とした教科なのである。


3)子どもの変容に関する自己評価

 私は、平成7・8年度の2年間ほぼ週に一回の割合で、上越教育大学附属小学校の上原進学級に入り、観察のみならず、上原教諭やクラスの子どもたちとともに様々な活動を行った。そして、子どもたちが2年生を終えようとする時期に次の様な自己評価アンケートを実施した(平成9年3月13日実施)。ここで、「そうたん」とは「総合単元活動」という上越教育大学附属小学校独自の総合的な学習活動であり、その発想は、生活科と共通のものである。
生活科では、「対象や他者に対する、子どもひとりひとりのかかわり」が、実践を組み立てる基本的な視点とされる。「ひとりひとりの子どもの生活実態や個別性が最大限に尊重されるべきであり、子どもの外側からの『正しさ』や『望ましさ』の安易な適用やそれにもとづく評価は控えなければならない2)」。その子なりの活動、関心、気付きなどがその子に即して吟味され評価されるべきなのである。内的世界にかかわる達成や成長については、結局、学習者ひとりひとりが自分自身で検討し吟味するのが一番よいのではないだろうか。その意味で、私は、自己評価を大切にしたいし、その結果については信頼し尊重したいと考えている。あえて、子どもたちの自己評価を取り上げる所以である。

┌──────────────────────────────────────┐
│2年1組のみなさんへのアンケート                                     
│じょうえつきょういく大学 木 村 吉 彦(きむら よしひこ)                       

│ 1.「そうたん」のかつどうをして、自分でどんなことができるようになったと思いますか?
│  よく読んで、思ったとおりにこたえてね。
│ @ほかの人のやることを気にしたり、まねしたりせず、自分のやりたいようにすることが
│  (  )できる     (  )ふつう      (  )できない
│ Aやりたいことをはじめたら、自分が「やったぞ」と思えるまでむちゅうになってとりくむことが
│  (  )できる     (  )ふつう      (  )できない
│ Bみのまわりのくさ木やいきものなどをじっくり見たり、それらのちがいやかわって
│  いくようすに気づいたりすることが
│  (  )できる     (  )ふつう      (  )できない
│ C「ふしぎだな」とか「へんだな」「おもしろいな」と思えるように
│  (  )なった     (  )ふつう      (  )ならない
│ D「ふしぎだな」とか「へんだな」「おもしろいな」と思ったとき、自分で本や図か
│  んでしらべたり、人にきいたりしてそのわけを見つけようとすることが
│  (  )できる     (  )ふつう      (  )できない
│ E自分で「○○したいな」「○○しよう」と思ったとき、自分でそのやりかたやひつ
│  ようなものなどをかんがえてできるように
│  (  )なった     (  )ふつう      (  )ならない
│ F自分でかんがえて、くふうしたりしながらおもしろいものをつくったり、たのしい
│  ことをけいかくしたりすることができるように
│  (  )なった     (  )ふつう      (  )ならない
│ G友だちに自分のかんがえていることや思ったこと、見つけたことなどをまちがえず
│  にきちんとつたえることができるように
│  (  )なった     (  )ふつう      (  )ならない
│ H自分のかんがえていることやわかったことを友だちにつたえるとき、「え」「作
│  文」「おどり」などいろいろなほうほうの中から、一ばん気もちがつたわるほうほ
│  うをえらんでつたえることができるように
│  (  )なった     (  )ふつう      (  )ならない
│ I自分のよさや友だちのよさ、がんばったところを見つけることが
│  (  )できる     (  )ふつう      (  )できない
│ J友だちにやさしい気もちでせっしたり、友だちにしんせつにしたりすることが
│  (  )できる     (  )ふつう      (  )できない
│ K友だちと力をあわせて、いろいろなかつどうをすることが
│  (  )できる     (  )ふつう      (  )できない

│ 2.「そうたん」のおべんきょうはすきですか?
│  (  )すき      (  )ふつう      (  )きらい
│ ☆そのわけを、できるだけたくさんおしえてね。



└──────────────────────────────────────┘
 これらの質問項目を「生きる力」の内容別に分類すれば次の様になろう。
┌──────────────────────────────────────┐
│ T.個人的資質                                               
│  A.自己表現力…a.自己主張の力(@)b.伝達力(G)c.表現力(H)            
│  B.問題解決能力…a.問題発見力(BC)                             
│           b.問題解決力:ア.調査能力(D)イ.思考力(EF)                
│                   ウ.実行力(A)
│ U.社会的資質
│  A.他者への着目(I) B.他者への思いやり(J) C.他者との協力(K)
└──────────────────────────────────────┘

 このうち、「他者とかかわる力」に直接結びつくのは、G〜Kである。人数とその割合は以下の通りである。(回答総数37)

G友だちに自分のかんがえていることや思ったこと、見つけたことなどをまちがえず
 にきちんとつたえることができるように
 なった…14(38%),ふつう…21(57%),ならない…2(5%)
H自分のかんがえていることやわかったことを友だちにつたえるとき、「え」「作
 文」「おどり」などいろいろなほうほうの中から、一ばん気もちがつたわるほうほ
 うをえらんでつたえることができるように
 なった…12(33%),ふつう…23(62%),ならない…2(5%)
I自分のよさや友だちのよさ、がんばったところを見つけることが
 できる…29(78%),ふつう…7(20%),できない…1(2%)
J友だちにやさしい気もちでせっしたり、友だちにしんせつにしたりすることが
 できる…20(54%),ふつう…17(46%),できない…0
K友だちと力をあわせて、いろいろなかつどうをすることが
 できる…28(77%),ふつう…8(21%),できない…1(2%)

 この結果をどの様に読み取ればいいのであろうか。
 自己表現力の一部と考えられる伝達力(G)と表現力(H)については、「まちがえずにきちんと」や「一ばん気もちがつたわるほうほうをえらんで」という「条件付き」であることから、自己評価が比較的控えめだったと思われる。それに対して、社会的資質の方は、概して高い自己評価がみられる。とりわけ、自分や他者の長所を認めようとする態度や他者と協力できる自信については、8割近い子どもたちが自分のよい方向への変容を自覚している。他者への着目・他者への思いやり・他者との協力という社会的資質については、何よりも子ども自身が、その成長を自負しているのである。ちなみに、「できる」「なった」の選択については、ここに挙げたIと「C『ふしぎだな』とか『へんだな』『おもしろいな』と思えるように」が29人で最多であった。問題発見の力と他者の長所発見の力がついたと思っている子どもが一番多いというのは、対象とかかわる力と他者とかかわる力が共についてきているということではなかろうか。「自分」の育ちを前提に、「対象」と「他者」に着目する力がついていると考えてよいであろう。
 このような「かかわる力」の育ちは、どこに由来するのであろうか。次に、この上原学級の2年間を、2年目を中心に追ってみよう。

2.地域へとび出す実践―「なかよしぼくじょう」と「開こう!朝市」の実践―

1)大型動物の飼育(1年次)

 上原学級の1年目は、春から秋まで2組のみんなといっしょに「ロバのろっちゃん」を飼育した。上越市に隣接する板倉町の光が原牧場で4月にロバと出会い、もうすぐ雪の便りが聞こえる10月末のお別れ会まで実質半年間の飼育であった3)。
 ろっちゃんという「生き物」から、子どもたちは人間関係の原則を学んだようである。すなわち、ロバほどの「大物」になると、遊ぶにしても世話をするにしても、子どもたちの思いどおりには動いてくれない。この現実が子どもたちの「自己中心性」を許してくれない。ろっちゃんとの共存は「自分が相手に合わせる」ことによってしか実現しないのである。また、ろっちゃんは時々、柵を壊しては逃げ出した。ロバにとって必然性のある行動でも、子どもたちにとっては「予期せぬ出来事」だったようである。子どもたちは、自分と違う「生」を生きるろっちゃん、ろっちゃんとは違う「生」を生きる自分に気づかされたのであった。前述の「社会的な資質」からすれば、子どもたちは、ろっちゃんを通して「自他の違い」をいやと言うほど気づかされたのであった。

2)地域にとび出し、地域に学ぶ(2年次)

 2年生になると、上原学級の子どもたちは、3回の「朝市」を行った。「春の朝市」(平成8年5月17日…学校で)・「秋の朝市」(11月3日…学校で)・「冬の朝市」(12月7日…本物の場所で)の3回である。上原教諭によれば、子どもたちは、「大町通りの朝市を『まねる』ことから始め、…まねながら自分たちの店をつくってい」った。ところが、「初めは『まねる』から入っても、朝市の活動を進めていくと、子どもは自分らしいことを考え出していく4)」のであった。そこには「まねぶ=まなぶ」子どもの姿があった。1回だけで終わらずに3回繰り返したことで、たとえ1回目はうまくいかなくとも、2回目・3回目にその経験を生かせばよい、ということも子どもたちは学んだのであった。
 子どもたちは、地域の中にとび出していくことで、地域の伝統文化としての「朝市」に触れ、「まね」から始めながらも、体験していく中で自分たち独自のものに継承発展させ、朝市を独創的な文化として再生産していったのである。これこそが、地域に生きることであり、地域に学ぶ姿そのものである。朝市を見物するところから始まって、実際に自分たちで3回の市を開くまでの過程は、次の通りである5)。

@朝市を諸感覚で感じる

 春の味覚を採るために学校の周りの散歩を繰り返していた子どもちは、さらに足を伸ばして大町通りへと出かけていった。そこで、こごめ(くさそてつ、こごみとも言う)、ぜんまい、ふきのとうなどの春の食べ物がトレーに入れて売られているのを目撃する。彼らと朝市との「出会い」である(写真4−1 朝市の取材)。
 子どもたちは、市で見つけたものをカードに書いたり、品物の名前を書いたりして学校に帰ってきた。2回目に大町通りへ行った時はお金を持って行って実際に買物をした。こうして、大町通りの朝市で見たり、聞いたり、買ったりすることを繰り返す中で、子ど
もたちは様々なことを感じとっていった。子どもたちにとって朝市のよいところは、売られているものを見れば、採ってきたもの・栽培したもの・手作りの物など、商品になるまでの過程が分りやすいことであった。分りやすいがゆえに「まねる」ことができたのである。また、売り手と買い手とのやりとり(子ども自身も当事者の一人であるわけだが)も楽しく、あたたかいものを感じとったようである。

A朝市をむかえるまで

a.朝市の計画

 子どもは、大町の朝市で見たことをもとに自分たちで開く朝市の計画を次の様に立てた。
 品物の準備→値段の決定→売る場所の決定→売り方/店の出し方を考える→お金の計算

b.品物の準備

 本物の朝市をまねようとしているのだが、子どもではとうてい用意できないものも提案される。そこで、どんなものなら品物になるのかを話し合った。その結果、・買ったものではなく自分で集めたもの、・買ったものでも育てたもの、・手を加えて作ったもの、の
3点で落ち着いた。花の苗を育てる、食べられる草花を集める、野菜を育てる、飾り物を作るといった活動が進んだ。子どもたちは、友達同士で見せ合ったり比べたりしながら品物を作っていった。一緒にやりながらアイディアを広げていったのである。

c.値段の決定

 品物ができたら、値段を決めることになる。それぞれの自由にしてしまうと、同じものでも色々な値段が出てしまうので、次の二つを方針とした。
 ・材料費を記録し、それをもとに値段を決める。
 ・本物の朝市で売っている品物の値段と比べ、自分の値段を見直す。

d.宣伝

 朝市を宣伝する方法は、子どもたちが思い思いに考え出した。ちらしや広告を作った子ども、大きな看板を作った子ども、のぼりを作った子ども、イラストや気の利いた言葉の入ったものなど、子どもらしいものができあがった。
 できあがったちらしや広告は、掲示したり、学校のまわりに配ったりした。
 こうして朝市の日を迎えたのである。

B朝市の本番そして売上金

a.買い手とのやりとり

 朝市が始まった。学校での朝市には、子どもたちの家族がたくさん買いに来てくれた(写真4−2 春の朝市)。冬に行った大町通りでの朝市では、一般の方もたくさん来てくれた(写真4−3 冬の朝市)。「それ、ちょっと高いわよ、まけなさいよ」とお客さんに言われ、値段を下げる子がいた。自分の品物のよさを宣伝する子がいた。計画通りにいかないお客さんとのやりとりを通して、子どもはその場で考え、その都度判断しながら、相手とかかわっていた。

b.売上金の計算

 朝市が終わった後教室に戻り売上金の計算をした。このとき、売上金から材料費を差し引くことが話された。子どもたちには不満らしいが、これは納得せざるを得ない。
 この売上金の計算は、子どもたちは無意識であろうが算数の学習も兼ねている。実際のお金を用いながら千や万の数を学習しているのである。自分たちが精根込めて「稼いだ」お金である。まちがえないようにと彼らも必死である。

c.売上金を元手にした活動

 売上金の一部を使って、秋まき野菜の種を買った。それらが成長し、収穫した大根やかぶは2回目、3回目の朝市の品物にした。3回目の朝市が終わってから、それまでの売上金を使ってクリスマスパーティーをした。また、朝市をした記念にと、顔写真入りのキーホルダーも作ることができた。

3)子どもたちは、どのようにして「かかわる力」を学んだか

@子どもの「自己選択」にもとづく活動

 春の朝市開催前日の最後の準備作業。子どもたちは一心不乱に自分の課題に向かっていた。子どもたちのあの集中力は今でも私に強い印象として残っている。そして、私も「お客さん」の一人として参加した翌日の朝市。値切られて困っている子ども、売れ残りそうになって「買ってちょうだい」と売り込みに来る子ども、だれもが真剣そのものであった。あの「集中力」と「相手に対してものおじしない態度」そして「他者とかかわる力」は、上原実践のどこに由来するのだろうか。
 単元を展開していくなかで、上原教諭は様々な手立てを考え、子どもたちに提案したり、また自らも参加したりして活動にかかわっている。様々な手立てとは、具体的には次の様なものである。

・幼児期の「ごっこ遊び(お店やさんごっこ)」という先行経験を活用して模擬体験させ ることにより、全員が売り手と買い手の立場を経験し、朝市の場面を双方向からイメー ジできるように工夫した。
・事前事後の話し合いをたっぷり行うことで見通しをつけるチャンスと振り返りのチャン スをつくり、子どもたちの発想の拡大を促した。ただし、方向性の最終決定は子ども自 身に任されていた。担任はあくまでアドヴァイザーであり、子どもたち自身が「自分で 選ぶ」経験を繰り返していくのである。
・子どもが必要とすることが予想される道具や材料を豊富に準備し、子どもの手の届くと ころに用意されていた。活動の方向のみならず、モノについても子どもたちは必要に応 じて選べるようになっている。この材料の中には、何冊かの「図鑑」類も含まれていた。 1年生の時と違い、子どもたちが文献によって調べるという抽象的な学習様式を身につ けていることを、担任は見抜いていたのである。

 ここには、「イメージ→他とかかわる活動→振り返り→新たなイメージ→他とかかわる活動→振り返り……」という循環が見られる。重要なことは、それぞれの場面の設定が、子どもたちにとってすべて「選択的」であったことである。「自分で選ぶ」場面では、同時に「自己評価」がなされていることは言うまでもない(図4−1 子どもの「かかわる力」を育む活動)。しかも、上原教諭の場の設定は、子ども個人の学びの場と自他のかかわりのなかでの学びの場という二つが常に用意されていた。こうした選択的な学習環境が与えられることで、子どもたちは自分の課題をクラスメイトと共に発見し、共に解決する活動へと向かっていったのである。
 子どもたちのあのパワーの源は、「自己選択の経験の集積」にあったように思う。幼児期の「遊び」経験はもちろん、1年生の時代から、上原学級の子どもたちは、自分自身で選んだ課題を自分自身で解決する経験をたっぷり積むことで、他者とのかかわりにおいて現れた課題(例えば、クラス全体の課題や教師が与えてくれた課題)に対してもしっかりと受け止め、課題解決に立ち向かってゆける力がついたのだろうと考えられる。上原教諭の「選択的」な学習指導のなせるわざであり、「主体的活動=自己選択の連続」の重要性を目のあたりにした思いがする。

A「本物」がもたらしたもの

 今回の一連の朝市における最大の課題は、値段の決定であった。需要と供給の関係から生まれる商品価値の問題を小学校2年生なりに解決したわけだが、いったん話し合いで決めた値段であっても、お客さんとのやり取りのなかでどんどん変わってしまった。でも、そうやって手に入れた売上金は、計算にも熱が入っていた。
 もう一つ子どもたちが経験的に学んだことは、商品管理の問題である。翌日を楽しみに用意しておいたジャムに蟻が侵入していたのである。例えば冷蔵庫に保存するといった対策が可能であったと思われるが、あとの祭であった。
 考えてみれば、これらは、おとなの商売にとっても共通の課題である。これは、ひとえに「本物」を教材としているからである。やはり、本物からの学びには、「ごっこ」では味わえない醍醐味があることを、子どもたちは実感したであろう。
 ここで私は、『エミール』における、市場でのアヒルの奇術の場面、園丁ロベールに掘り返されたそら豆畑の場面、そしていたずらをしてガラスを割った子どもへの「自然罰」の教訓を思い出す6)。そこでは、幼・少年期における現場と出会うことの大切さ、本物を通して体験することの教育的インパクトの大きさが語られていた。奇術師とロベールからは、生きるために人それぞれがいかに真剣であるかをエミールは学んだはずである。また、窓から吹き込む夜風は、原因をつくった者がその結果をも引き受けなければならない自然の厳しさを子どもに教えてくれると思う。上原学級の子どもたちも、大事なお金を有効に使おうとして、おとながいかに真剣であるかを学んだであろう。また、「うっかり」を許してくれない自然の厳しさをも思い知ったはずである。自慢のジャムが売り物にならなくなっても、蟻をうらむわけにはいかないのである。

3.「生きる力」とは―「3R’S」から「4R’S」へ―

1)「生きる力」の育成

 これまで、教育によって身につけさせたい力とは、「読み(Reading)・書き(wRiting)・算(aRithmetic)」の三つである言われ、「3R's」と称されていた。それに対して、昨今の社会状況の変化からくる子どもたちの生活の変化により、もうひとつのRを加えて「4R's」を基礎学力と考えるべきだ、と言われている。第4のRとは、「人間関係(human Relationship)」の力である7)。まさに、「かかわる力」の必要性と重要性がクローズアップされているのである。
 この提案は、「自己教育力」「新しい学力観」において不十分とされてきた子どもの「社会化」を促す提案である。人間が社会人として生きていくためには「個の充実」と「社会化」が必要である。これまでは、ややもすると「個性化」「個の充実」ばかりが強調され、もうひとつの大事な力「社会化」が軽視されがちであった。これは、第15期中央教育審議会第一次答申(平成8年7月19日)における「生きる力」という概念と内容的に共通していると思われる。第1次答申は言う。

 「この様に考えるとき、我々はこれからの子供たちに必要となるのは、いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力であり、また、自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など豊かな人間性であると考えた。たくましく生きるための健康や体力が不可欠であることは言うまでもない。我々は、こうした資質や能力を、変化の激しいこれからの社会を[生きる力]と称することとし、これらをバランスよくはぐくんでいくことが重要であると考えた。(下線は木村による)8)」

 ここで語られる「生きる力」が、本章のなかでこれまで私が取り上げてきた「育っている力」と共通するものであることに気づくであろう。

2)「自己形成空間」の提供

 失われてしまったものに対して、自然発生的な回復を求めることはできない。ある意味では不本意なことであっても、私たちおとなは、意図的・人工的にでも子どもたちに「自己形成空間=子どもたち同士で自ら育つ環境」つまりは「生きる力を育む環境」を提供しなければならない。具体的には、「異年齢集団」による「群れ遊び」の機会を提供することがとりわけ重要であると思われる。今回は、単学年の実践例の紹介であったが、生活科に関して言えば、これからは1・2年合同の実践が模索されてもいいのではないだろうか。3年生以上に導入が予定されている「総合的な学習の時間」も念頭に置けば、今後、学校における学習指導のなかに異学年児童集団による活動の機会がもっと取り入れられる可能性は広がりつつある。もちろん、学校行事や学校の日常生活(登校班や清掃班)のなかに縦割り集団を取り入れることも重要であるし、既に実施している学校も多い。
 また、家庭・地域にあっては、地域の自然や歴史に触れる機会をつくり、異年齢集団による活動を地域の子どもたちに提供することも可能である。私は、山形県上山市東 地区における「ゆうゆう探検隊」という地区公民館活動に、平成6年度の発足当初から参加している。この活動は、小学校4年生から6年生までを対象とし、夏の一泊二日のキャンプを中心に、地域を巡って地域の自然や歴史を学んだり、お年寄りとの交流会をしたり、保護者も交えて手打ちそばの会やお料理会を催したりと、学校週5日制に向けた地域のあり方の一つのモデルを提供してくれている(写真4−4 自然のなかの群れ遊び,平成8年8月著者撮影)。例年35人前後の子どもたちが隊員として参加しており、小学校や地区会はもちろん、市教育委員会の理解・応援もあることから、上山市内の他地域からも注目されている活動である。自分の身のまわりの自然や事物に「じかに」しかも「仲間と共に」かかわって過ごす時間は、子どもたちにとって何ものにも代えがたい貴重な体験である。かつては放っておいても実現できたものが、今ではおとなが意図的に企画・運営しなければならない現実があるのである。

4.「ケアリングのこころ」に裏打ちされた「かかわる力」

 「ケアリング(caring)」という言葉は、アメリカの看護学の用語として登場し、最近では教育学や心理学、さらにはフェミニズム論者も加わり興味深い議論が展開されている。ネル・ノディングズによれば、「『ケア』とは、心的な受動的作用(mental suffering)、ないしは専心没頭(engrossment)の一状態である。ケアするというのは、負荷された心的状態、つまり、なにかや、だれかについての、心配や、恐れや、気づかいの状態の中にあることである。言いかえると、ひとが、なにかやだれかに関心や、好みがある場合に、そのなにかやだれかに対してケアすることである。…そしてまた、ケアすることは、なにかやだれかの保護や、福祉や、扶助を託されているという意味でも9)」ある。より具体的には、a.ある一定の事柄(それが、専門的であれ、個人的であれ、公的であれ、)に[かかわりがある]こと、b.[気にかける]こと、c.[関心を持つ]こと、d.[世話する]こと、である10)。
 「ケア(care)」や「ケアリング」の定義もさることながら、あくまで実践的なこの言葉にとってより重要であると思われるのは、「ケアするひとの行為」についてノディングズが語っている次の部分である。
 「…ケアするひととして行為することは、具体的な状況の中で、個々のひとに対して、特別な敬意を払って行為することである。わたしたちは、自分が賞賛を勝ち取ろうとして行為するのではなく、ケアされるひとの幸福を保護し、増進するためにそうする。わたしたちはケアされるひとのためを思っているのだから、そのひとを喜ばせるような仕方で行為したいと思う。しかし、喜ばせたいというのは、そのひとのためであって、そのひとがこの寛大さに感謝をもって答えることを見込んでではない。こうした動機づけ―ケアされるひとの幸福と喜びが増進されるように行為すること―でさえも、ケアリングの確固とした、永続的なしるしを提供するものではないかもしれない。わたしたちはときには、ケアされるひとがなにを望んでいるのか、そして、自分がどう考えるのがそのひとにとって最善であるかということで葛藤に投げ込まれることもある。たとえば、わたしたちは、親としてケアするとき、そういつも、子どもからの喜びの直接的な反応が返ってくるような仕方で行為するわけにはいかない。そんなことをするというのは、やはり、ケアリングのオ墨つきを得たいという願望の証拠であろう。
 ケアするひとは、ケアされるひとの安寧を願い、安寧を促進するよう行為する(あるいは、行為を控えて、内面的に関与する行いをする)。11)(下線は木村による)」
 ここで注目したいのは、「ケア・ケアリング」が、単なる「世話(する)、介護(する)」を意味するだけでなく、他者を「気づかい」、「心配し」、他者に「思いやりをもって接する」ことであり、それ以上に「あくまでケアされるひとにとっての安寧を願う行為である」という意味が強く読み取れることである。人間が真の意味で「人間的である」とはどういうことなのか、他者に対してどういう行為をおこなうことが求められるのか、という人間存在の本質が問われているのである。ノディングズが、「教師とはまずケアするひとである12)」というとき、私は、自分のあり方も含め、学校教育・学校教師のあり方が根底から揺さぶられていることを実感する。
 「ケア・ケアリング」を以上のようなものとして受け取れば、この言葉が、人間存在の本質に根ざしたひとやものや事柄との「かかわり方」つまりは「かかわる力」のありようについて語っている言葉であることに気づかされる。本章でこれまで述べてきた、「かかわる力」や「生きる力」の内容を吟味するうえで、また、育てるべき力の内容を示すものとして傾聴に値するものを含んでいる。「生きる力=かかわる力」は「ケアリングのこころ」に裏付けられていなければならないのである。
 もうひとつ忘れてならないことは、ケアという言葉は、ケアする人とケアされる人との関係が平等であることを前提にしている、ということである13)。それは、相手の意志を尊重し相手に援助行動の質や内容を選んでもらうことを前提にしていることを意味する。つまり、ケアされる側が主役でケアする側はあくまで脇役に過ぎないのである。一般的には、ケアする側に「お世話してあげている」という優越感があり、ケアされる側には「お世話していただいている」という卑屈さや劣等感を抱いていることが多いと思われるが、「ケアする者がケアされる」という相互援助の関係、「支え、支えられる」関係の中で自己を発見するのが、真の「ケアリング」と言える。
 このような「ケアリング」の発想からすれば、「ケアリング」の教育とは、教授者主体の「知識の伝達-受容・復元」中心の教育であるはずもなく、ケアされる側の弱さや脆さ、苦しみ、傷み、叫び、願いに応答する実践にほかならない。このような視点から日本の学校教育のあり方を根本的に見直す必要があるのではないだろうか。
 教師にとっての「ケアリング」とは、「育むこころ」「自己実現の支援者としてのこころ」をもって子どもに接することである。また、子どもにとっての「ケアリング」とは、他者(対象)とかかわるときに相手の気持ちになって配慮・実践しようとすることである。そして、これから大事なことは、学校・地域・家庭ボーダーレスのケアリングである。おりしも「幼児期からの心の教育」が中央教育審議会に諮問されたばかりである。
 「ケアリング」の視点から上原実践を再検討してみるとどうなるであろうか。
 ろっちゃんという対象から子どもたちは、「いのちあるものの主体的な生」を学んだ。そのろっちゃんの生に対して子どもたちは、文字通り献身的に世話をし、おおいに戸惑いながらも「思いやりをもって」接したのであった。ろっちゃんから「自己中心性からの脱却」というかけがえのないプレゼントを子どもたちは贈られたのである。これは、まさしく「相互援助の関係」「支え、支えられる関係」以外の何ものでもない。
 朝市ではどうであろうか。商品とお金という「本物」を介して、子どもたちはお客さんとのやりとりのなかで、人が流通のプロセスを通してつながっていることを実感したにちがいない。ある時は「駆け引き」をし、ある時は「おまけ」をし、また「おまけしてもらい」、家族や知り合いとのやり取りから「見ず知らず」のお客さんとの真剣勝負まで、なんとバラエティに富んだ人間関係を切り結んだことか。「見ず知らず」のお客さんとは、たとえ「おとなと子ども」の関係であっても、明らかに対等の関係である。それは、商品が本物であるし、お金が本物であるからである。子どもたちは、まさに、「本物」の緊張感のなかで「本物」の現実の人間関係を体験したのである。自分が生まれ、育っている地域へとび出して、本物の(実際の、緊張感に満ちた)人間関係を体験する、このことが子どもたちの「生きる力」を強く、たくましいものにしたのである。
 私は、この上原実践を、「ケアリングのこころ」に裏打ちされた、「生きる力=かかわる力」育成のための実践事例として意味づけたいと思う。この実践の中では、教師と子どもは対等の関係にあったし、ろばと人間との関係も対等であったし、お客さんと店の主人である子どもたちの関係も見事なまでに対等であった。そして、そのような関係だからこそ、子どもも教師も地域の人も時間と場所を共有し、共に学び合えたのである。
 社会で生きるということは、とりもなおさず他者と互恵的関係をもつことである。現実の生活では誰もが他者からの恩恵を受けて生活しているのだ、という認識が日本の子どもたちに希薄であることは確かである。日本の子どもたちには、「助け助けられ、与え与えられる」喜びを深く体験させ、他者との相互扶助関係の中で自己を発見させる必要がある。真の他者との「かかわり」のなかで「いのち」の「つながり」を実感し、「意味ある生」を深く実感させ、獲得させる必要があるのである14)。




1)拙稿「生活科の教育学的基礎付け(その4)−現代日本の子どもの『生活』−」(上越 教育大学幼児教育講座生活科研究グループ『生活科の構想とその展開』所収 1996年)
 p.17.
2)拙稿「生活科における子どもの『自己評価』と『学力』−子どもたちへのアンケート調 査から−」(上越教育大学 教科教育に関するプロジェクト研究『教科教育の理論と実 際』所収 1996年)p.185.
3)上越教育大学学校教育学部附属小学校1年生『ぼくらのなかよしぼくじょう−総合単元 活動の記録−』 1996年
4)上越教育大学学校教育学部附属小学校2年生『チャレンジ2年生−総合単元活動の記録 −』 1997年 p.63.
5)同  上  書  pp.65-68.
6)J.J.ルソー,今野 訳『エミール(上)』(岩波文庫 1962年)pp.143-148,pp.299-306.
7)石田恒好「“生きる力”心理学からの解明」(『週間教育資料No.512 平成9年1月6日号』) p.42.
8)第15期中央教育審議会第一次答申『21世紀を展望した我が国の教育の在り方につい て』(『文部時報平成8年8月増刊号』)p.20.
9)ネル・ノディングズ,立山・林・清水・宮崎・新 共訳『ケアリング 倫理と道徳の教育 ―女性の観点から』(晃洋書房 1997年)pp.13-14.
10)同  上  書  p.14.ここでノディングズの言う[かかわりがある](英語では  ‘care’を用いている)とは、「なんらかの関係をもつ」という意味のようである。私が、 これまで本章で用いてきた「かかわり」とか「かかわる」とは、「個人の主体的な判断に もとづいて、他者や対象と関係を保ちながら行動すること」を意味しており、より意志 的・自覚的で社会的な行動を念頭に置いている。あえて英語にすれば、‘concern’であ る。
11)同  上  書  p.39.
12)同  上  書  p.271.
13)高橋史朗「『生きる力』は『ケアリング』から」(『週間教育資料 No.522,平成9年3 月 17日号』)p.37.
14)同  上  稿  p.38.





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