愛知教育大学生活科教育講座紀要『生活科・総合的学習研究 第2号』(2004.3.)掲載
生活科教師の今日的な課題
−「子ども理解」の在り方を中心に−

はじめに−本稿の課題

日本の学校教育は、今、大きな転換期を迎えている。「ゆとり教育」への批判と「学力低下論」の台頭のなか、「子どもを学習の主人公にした学校教育の実現」をめざして設立されたはずの生活科や、児童・生徒の課題発見力・課題解決力や考える力を育成しようとして導入された「総合的な学習」への「逆風」が吹き荒れている。
 本稿は、まずはじめに我が国の学校教育を取り巻く状況を確認・分析する。それを前提とし、「今生活科に求められていることは何か」を示し、その課題の克服のために「何をどのように考えて、どうすればいいのか」を明らかにしようとするものである。言い換えれば、教師が生活科を実践するに当たっての今日的な課題を明らかにし、その解決のための考え方と方法を提案しようとするものである。
 具体的には、次の2点を本稿の課題とする。
@生活科の「教科の特性」をもう一度明らかにすることで、生活科に求められている今日的な課題を確認する。
A子ども理解の在り方を中心として、教師の力量形成という課題に応える方途を提案する。

T.生活科と学校教育を取り巻く現状

 本格実施後10年を過ぎ、小学校中学年以降に「総合的な学習」が本格導入されたにもかかわらず、生活科に対する理解は、まだまだ不十分なままといわざるを得ない。それどころか、生活科に対するマンネリ化・パターン化という実態への批判、つまりは「先の見える生活科」批判も渦巻いている。一方、「学力低下論」のあおりを受けて「活動あって学びなし」の非難も、総合的な学習に対して同様、至る所で耳にする。さらには、「ゆとり」と「学力」の間で翻弄され続け、結局、学校が子どもに関する「あれもこれも」引き受けざるを得なくなっている現実がある。現場教師たちからは、「多忙感」「負担感」「疲労感」といった「苦悩」ばかりが聞こえてくる。
このような折り、平成15(2003)年12月26日、文部科学省は「小学校、中学校、高等学校等の学習指導要領の一部改正について」を通知した。同年10月7日付『中央教育審議会答申』の内容をふまえ、今回の通知では、@学習指導要領の「基準性」の一層の明確化、A総合的な学習の一層の充実、B個に応じた指導の一層の充実、C必要な学習指導時間の確保、等が示された。その内容は、決して、これまでの(平成元年版指導要領以降の)方向を転換しようとするものではなく、むしろ、これまでの方向の確認と一層の充実を、「確かな学力」と「生きる力」という二つのキーワードを用いて訴えているように読みとれる。
 なぜ、そのように読みとれるのか。
 「日本がかつての日本と全く違ってきている」という意見がマスコミから流れてくる。かつての「日本のよさ」が失われてしまった、という論調である。「いまだかつてなかったような急速かつ激しい変化が進行する社会を一人一人の人間が主体的・創造的に生き抜いていくために」(平成15年10月7日『中央教育審議会答申』)[生きる力]を育む教育がますます求められている。これは、私たちに課せられた課題が、依然として「主体性あふれる日本人づくり」であることを意味している。私たち日本人は、あらためて「自分」というものを考え、「自分」を確立する必要がある。そのためには、一人一人に着目する教育の実現と学び続ける意欲の育成が尚一層重要である。
 「自立への基礎を養う」という生活科の究極のねらいの本質は、「自分自身への気付き」にある、と私は考えている。それは、自己表現力も含んだ自己認識の力である。低学年の子どもで言えば、「ぼくは・わたしは、○○がすきだ、○○がとくいだ、○○したい」と人前で堂々と言える子どもを育てなくてはならない。国際社会の中で、主体的な判断に基づき「自分の言葉で」自己主張のできる日本人の育成が求められている。
また、平成16(2004)年1月24日の新聞各社は、日本の高校3年生の数学と理科の(測定可能な)学力が文部科学省の「期待値」を大幅に下回っていた、と報じた。平成13年度に実施された全国調査結果に対する分析である。国語と英語に関してはほぼ期待値通りであったとしたものの、調査対象になった高校生の41%が家庭において全く勉強していないという結果が示され、70%以上の生徒が「勉強嫌い」である、という「実態」が報道された1)。いわゆる「学力」も不十分であり、かつ、「意欲」も育っていない、というのである。
 この報道を、私たちはそのまま鵜呑みにしてはならないであろう。なぜなら、高等学校における理科の選択制という実態については正確に報じられていないからである。理科の知識を獲得する機会が高校生たちに十分に与えられていないにもかかわらず、今回のテスト結果だけをもって「学力低下」とするわけにはゆかない。その意味では「学力」の高低よりも「学習意欲」と「学習習慣」が育っていないことの方がより深刻な問題かもしれない。まがりなりにも、低学年段階の自然現象への興味・関心をそのねらいの一つとする生活科にあっても「他人事」とは言い切れない。
 この様な現状を、私たちはどのように理解したらいいのだろうか。また、この現状を打開するために生活科や総合的な学習には何ができるのであろうか。

U.生活科の今日的な課題 〜「教科」としての生活科の捉え方〜

 学校における教科学習が、「人類の知的文化遺産の伝達」と「獲得した知識・技能を使いこなす能力の育成」という二つの役割をもっていることは言うまでもない。これまでは、ややもすると「人類の知的文化遺産の伝達」のみに偏りがちであった我が国の学校教育に、教科学習のもう一つの役割を大胆に導入しようとして設立されたのが生活科である2)。つまり、生活科は「教科」という枠あるいは名称のもとにあるが、これまでの教科とはいささか趣を異にするものなのである。そのことは、生活科が従来教科のように、「はじめに教える内容あり」ではなく、教師が「子どもと共に学習を創り出す」教科であるということを意味している。今、この第一の特徴が忘れ去られているように私には見える。あるいは理解不十分なままに今日に至っていると言った方が正確かもしれない。生活科の今日的課題の第一は、まず生活科の教科特性を正しく理解することである。

1.よりよき生活者形成を目指す教科

 今さら、生活科を「理科と社会の合科」と捉えている実践は横行してはいないと思うが、「指導案」の書き方などを見ていると、かつての社会科や理科をそのまま引き継いだような形式で書かれているものが散見される。それは、子どもの実態を捉えることに重点を置かずに、他教科と同じように「はじめに教師のねらいあり、はじめに教える内容あり」としか読みとりようのない書き方の「指導案」である。確かに生活科は「教科」なのであるから、ねらいもあれば内容もあり、それらは『学習指導要領』に明記されている。しかし、それは、子どもの実態把握を前提とし、学校や地域の実態をも加味した「ねらい」や「内容」として「指導案」に示されていなくてはならない。このような「教科」観と「指導」観のもと、生活科の場合、子どもは日常生活のなかに課題(興味・関心の対象)を見つけ、その課題を体験や活動を通して解決する(対象との直接的な関わりを心ゆくまで堪能する)。そのプロセスのなかで、子どもたちは知識や技能の意味を実感をもって理解する。そこで獲得された知識や技能は、再び自分の実生活へ取り込まれ、さらなる次の学習や日常の活動へと生かされる。つまり、生活科の場合、知識のための知識獲得が問題なのではなく、実生活に生きる知識・技能を獲得することで、子どもを「よりよき生活者」として形成することが目指されている。
 生活科という教科を「はじめに知識獲得あり」の教科とは考えないことが重要である。さらに言えば、生活科は、子どもの「知的な気付き」が前提になってはじめて教師の知識伝達が意味をもつ教科である。「知的な気付き」の重視とは、子どもの「発見」や「驚き」には必ず知的なものが潜んでいるという事実を見逃さず、教師は子どもの次の活動にその「気付き」を生かしなさい、という教師へのメッセージなのである。

2.幼小連携を強く意識した教科 

 現代社会における「知識」あるいは「情報」の重要性は今さら言うまでもない。しかし、こと生活科については、系統学習(知識獲得重視)教科の前提・基礎的部分をなすもの、と捉える必要がある。それは、生活科が日常生活に着目するだけに、新入児童が学校という新しい生活のなかで自分の居場所を見つけ、新しい環境に主体的に「適応」しようとすることを支える教科である、ということである。それは、子どもが学校へ登校するための「意欲付け」をも含んだ教科であることも意味する。当然のこととして、学校への適応意欲とは、先ほどの新聞報道で問題にした「学習意欲」
形成にも結びつく。生活科は、新入児童の学校への適応意欲と学習意欲の醸成を強く意識したものである。とりわけ、生活科における「遊び単元」の活用は、幼児期の発達特性を色濃く残している1年生にとって重要である。小学校における遊び活動の意義については、後に詳述する。
 一方、「間接教育」という言葉がある。「直接教育」に対する「間接教育」である。その意味するところは、教師の意図や伝達内容を直接子どもに与えるのではなく、「環境設定」によって、子ども自身が自ら学びたく(知りたく)なるように仕向ける教育、教師の意図(ねらい)を学習環境構成に反映させることによって、子どもの主体的な活動を誘発しようとする教育である。この「間接教育」という考え方は、平成元年版『幼稚園教育要領』以来、「環境を通した教育」ということで我が国の幼児教育の世界で強調されてきたものである。
 例えば、「秋をさがそう」という単元において、教師が子どもたちを校外に連れ出したとする。「校外に連れ出す」という手だては、子どもたちにとってより容易に秋を見つけることのできる学習環境を教師が提供したことを意味する。さらに大事なことは、生活科の場合、「みつけた秋」にはあらかじめ決まった「正答」などはない、ということである。そうではなく、何をもって「秋」とするかは子ども一人一人に任されている。ある子どもは、色づいた葉っぱや枯れた草や木の実という、これまでとは違う姿を見せる自然物を「秋」とするだろう。またある子どもは、店先の野菜や果物、あるいはブティックの衣料品の変化に着目して「秋」とするだろう。いずれも「正解」である。
 「意欲の形成」「遊び活動の重視」「間接教育」、これらはいずれも幼児教育の考え方の特徴である。これまでの我が国の学校教育が、多くの場合「一定内容を、一定時間内に、一斉に子どもに習得させようとする、教師主導の直接教育」であったことを反省し、「教師主導の直接教育から子ども主導の間接教育へ」という幼児教育の流れを、小学校以上の学校教育にも反映させようとしたのが生活科なのである。

3.方向目標を中心とした教科

生活科にあっては、「はじめに教える知識あり」ではないことは、既に強調した。しかし、一方で、「ねらい優先から活動優先へ」の発想に不信感をもつ人々に対しては、ある程度目に見える成果を示すことも意識せざるを得ない。一見遊んでばかりいるように見える(実際遊んでいるわけだが)生活科に対しては、既に述べたように「活動あって指導なし・活動あって学びなし」という疑念をもって見る向きがまだまだ根強いようである。生活科の発想を学校教育全体の発想へと広げていくためにも、方向目標と到達目標とのバランスを考えて、「成果」をも見せながら生活科を実践していく必要がある。
 方向目標とは、子どもの「学び」や「成長」「育ち」の方向性を示す教育目標のことである。そもそも、「自立への基礎を養う」というねらいそのものが、方向目標である。なぜなら、「この姿が見られれば(あるいは、このことについてわかれば)、この子どもは自立への基礎を養ったことになる」という到達点、それも誰もが納得せざるを得ないものを設定することなどできるであろうか。誰が見ても明らかな(測定可能な)到達点としての教育目標が到達目標である。例えば、算数の九九がわかっているかどうかは、書かせるか、唱えさせるかでもってどこまで理解したか、どこでつまずいているのかの「到達度」がわかる。しかしながら、「自立への基礎」を客観的に、目に見える(耳に聞こえる)、あるいは測定できる形で確かめることなどできない。教師にできることは、一人一人の子どもが「自立の基礎を養う」という「方向」に育っているか、学んでいるかを一人一人に即して確かめながら、学習や活動を組んでいくことである。
 このように、生活科の学習において基本となるのは「方向目標」(興味・関心をもつ、考える、挑戦してみる等、究極的には自立への基礎を養う)である。とはいうものの、個々の単元、もしくは個々の児童について、例えば、「この単元では、一人必ず一つ以上の秋を見つけることを目標にしよう」とか、「この子どもについては、この単元を通して、自分の見つけた物を人前で堂々と発表できるようになるまで引き上げてあげよう」等と、目で見て分かる姿としての到達目標を指導の中に組み込むことは十分可能である。むしろ、「到達目標を内に含んだものとしての方向目標」にもとづく学習が生活科の学習と捉えるとよい。方向目標と到達目標とのバランスに留意して生活科の学習指導に当たることが肝要である。

4.「生きる力」育成のための中心教科
 
Tの「現状」でも述べたように、我が国の学校教育の中心的な課題は、依然として「生きる力」の育成である3)。私がここで問題にしたいのは、積極的に自分を表出し、積極的に他者と交わろうとする「生きる力」である。それは、社会的な「生きる力」である。社会で「生きる力」を身に付けるためには、一人一人の人間が「個の確立」と「社会化」を果たす必要がある。既に私は、「個の確立」の要件として4R's(フォーアールズ)を提案した4) 。生活科は、この第4のR(human Relationship=人間関係の力)育成の中心教科であることが求められ続けている。
 昨今の我が国の子どもを取り巻く状況を思うとき、「自己とは異質であるが同等な個性あふれる他者5)=仲間」との「共同作業」のもつ意味ははかり知れないものがある。幼年期から少年期にかけての子ども集団は、「同等・同質」の関係が崩れて、「同等・不平等」さらには「異質・差別」という関係へ進みがちである6)。小学校に入学して間もない時期に、「同等・同質」の関係に立つ少年期集団を破棄してあらたに「異質・同等」の関係に立つ集団を形成するために、生活科のグループ活動は大きな役割を果たしうると思われる。
 子どもたちの日常「生活」を見直し、私たちは、「個人であると同時に集団の一員である」という当たり前の事実に目を向ける必要がある。他者とかかわりながら自分を知り、自分のことを意識しながら他者を知り認め合うという、(子どももおとなも含めた)人間としての日常を大事にした教育実践が求められている。その実現のためには、まず子どもが「自分のありのままの姿」をさらけ出せる場が必要である。理論的には、他教科においてもそうであってほしいし、実現可能なはずである。しかし他教科にあっては、「はじめに教科の内容あり」「はじめに教師のねらいあり」の現実があり、子どもはそれに自分を適応させるのに精一杯である。子どもは、場合によっては「不適応現象」を起こし、さらには「過適応現象」を起こしたりしている。それもこれも、課題がすべて子どもの「外から」やってくることに起因していると思われる。子どもの「内から育つ」力を信じ、また子どもの内面からわき上がってくる課題を認め、教師も子どもと共に学ぶなかではじめて、子どもの「生きる意欲=生きる力」がわいてくるのではないだろうか。この実現に向けて設立されたのが生活科である。

V.生活科教師の課題

私たちは、これまで生活科の教科特性を確認してきた。そこでは、生活科のめざすものが改めて見えてきたように思う。生活科とは、子どもたちが自分の日常生活に目を向けて、そのなかに課題を見いだし、その課題を解決する過程で手段的価値を実感できた知識・技能を獲得し、それを用いてよりよい生活者となることをめざす教科である。そこで問われるのは、「知識・技能」の量ではなく、「知識・技能」をいかに使えるかという精神的諸能力の質である。先の、教科学習の二つの役割から言えば、生活科の「ねらい」は、明らかに「獲得した知識・技能を使いこなす能力の育成」さらには意欲も含めた「生きる力の育成」にある。このような子どもの諸能力の育成を問題にするとき、教師にとっての課題は、必ずしも測定可能ではない部分の子どもの見取り、つまりは子ども理解の在り方である。
 本節では、「子ども理解」の在り方にかかわる問題を取り上げ考察していこう。

1.「子ども理解」の問い直し
   
@これまでの子ども理解
 学校教育における「子ども理解の在り方」は依然として課題のままである。他教科にあっても本来そうあるべきだと私は考えているが、とりわけ生活科にあっては子ども一人一人の実態が先にあって、その一人一人に見合った教育こそが実現されなければならない。
 授業づくりにとっての「子ども理解」の大切さは、だれもが認めるところである。ところが、現状はなかなか変化が見えない。これまでの子ども理解に問題があったのではないか、ということが考えられる。中野重人によれば、これまでの子ども理解には次の様な二つのポイントがあった7)。
ア.その子を生かすための子ども理解ではなく、  その子を(単に)知るための子ども理解であ  った。
これは、子どもを客観的に捉えるという意味においては優れていたが、その子をよりよく育てることにつながらなかった、という意味である。それは子どもの心を開く子ども理解ではなかったからである。どんなに詳しい子ども理解でも、子どもが心を開かないことには、その子を育てることにはほとんどつながらない。
 では、子どもが心を開く子ども理解とはなにか。それは「子どもと共にある」ということであり、「その子と同じ目の高さで子どもを見る」ということである。教え上手ではなく、聞き上手の教師が今求められている。「子どもと同じ目の高さ」という言葉は、ややもすると「理想」や「理念」のように思われがちである。しかし、幼児教育の世界を見れば、この言葉は「現実」そのものであることがわかる。つまり、おとながそのままの姿勢で幼児と接するということは、子どもにとっては「威圧感にさらされる」ことを意味する。文字通り「上下関係」である。このような関係にあっては、子どもは心を開くはずがない。私は、実習に出る学生に対して、「中腰になって」幼児と同じ目の高さで話をすることが幼児教育のスタートであることを強調している。
イ.これまでの子ども理解は子どもの短所や欠点、  間違いや失敗などに目が向いていた。
 これまでの子ども理解は、多くの場合マイナス面を中心に取り上げ、それをなくせば立派になるとのメッセージを子どもたちに送っていた。この短所や欠点に注目する伝統的な子ども理解は、それ自体無意味なことではない。かつての貧しい時代にあっては、これを子育てに活用できた。なぜなら、貧しい時代にあっては、子どもたちは小さい時から生き抜く耐性を身に付けたからである。貧しいということは、それ自体が教育的なのである8)。しかし、この伝統的な子ども理解に基づく子育てはもはや通用しない。物質的に豊かな時代に育った子どもたちには、短所や欠点を指摘され、それを直せばよくなるというやり方には往々にして耐えられないからである。その意味では、貧しい時代の子育てはむずかしくはなかった。ガマンとガンバリのすすめでよかったからである。今日の子どもたちはこの様なやり方を受け入れない。貧しかった時代の子ども理解と子育てが今問われている。
 要するに、子どもが変わったのであるから、子ども理解の在り方も子育ての方法も変わらなければならないのである。しかし、このことは、言うは易く行うは難し、である。授業づくりにあって、子ども理解の在り方が容易に変えられないのもそのためである。
 では、どう変えるのか。言うまでもなく、子どもに学ぶ意欲をもたせ、子どものもっている力をさらに伸ばし、(自立の基礎を養う方向に)育てるための子ども理解であることを考えれば、授業づくりにあって今最も必要なことは、その子の「よさ見つけ」である。その子の「よさ」とは、「その子らしさ」である。すなわち、一人一人のよさや取り柄、つまりは「いかにもその子らしいところ」を見つけ、それを認めてあげることである。短所や欠点を見つける子ども理解観から、「よさ」や「取り柄」や「らしさ」を見つける子ども理解観への転換が今求められている。
 この子ども理解観の転換は、当然のことながら教育観の転換をも求めている。短所や欠点を直す教育は、どの子も同じように育てるという「そろえる」教育をめざしている。めざす目標に全員をそろえるという伝統的な教育観がそれである。それに対して、新しい教育観が求められている。それは、その子の「よさ」や「取り柄」つまりは「らしさ」を認め受け容れることでその子が育つバネにする、という教育である。その子らしさは、一人一人違っている。その子らしさを育てることで、どの子にもやる気と自信、さらには生きる意欲をもたせることがこれからの教育に求められている。それは、「そろえる」教育に対して「ちがえる」教育である。かつて私が継続的に足を運んだクラスでは、黒板の上の壁に「みんなちがうからおもしろい」というメッセージが掲げられていた。その担任の先生は、「ちがえる」教育というこれからの学校教育のあるべき姿を先取りしていたのである9)。
A遊びから学びへ 〜新しい「子ども理解」の提案〜
 生活科における教師の「見取り」の基本は、子どもの「学びや育ちの方向性」を見きわめながら学習や活動を組み立て、子どもを理解することである。「遊び」的要素を多く含む生活科の学習にあっては、遊びの中にどのような「学び」の姿を見つけ出すか(つまりは「学びの見取り」)が、教師の第一で最大の役割である。
私は、平成13年度において上越教育大学附属小学校1年1組(担任:尾身浩光教諭)の実践を継続的に観察・記録する機会を得た。幼小の連携を意識した1年生のカリキュラムづくりと「遊び単元」の関係を明らかにするためである。そこで明らかになった「遊び単元」の意義は、
a.(低学年の)子どもにとっては幼児期からの  連続性が確保できる
b.子どもが自分を思いきり発揮できる(ありの ままの姿を出せる)
c.教師にとっては「子ども理解」の最大のチャン スである
というものであった。これらの理由から、とりわけ1年生にあって「遊び単元」をふんだんに取り入れることは、子どもの学校適応と学習への意欲付けにとっても、教師(の子ども理解)にとっても有意義であることが実感できた。
さて問題は、遊び場面における子どもの「学びの姿」の見取りである。
ア.具体的な子どもの姿(木村の「見取り」)
子どもの活動を観察する中で、例えば「砂場遊び」場面において木村が実際に見取ることのできた子どもの姿とは次のようなものであった。
 砂や水の感触を味わう姿、感触を言葉に表す姿、感触への共感を求める姿、それぞれの思いをお互いに言葉で表し、自他の思いを比較する姿、砂団子や型抜き・川作り・滝作りをする姿、砂を使った「ごっこ遊び」を行う姿、諸活動を仲間と共に進めている姿(内容としては、他者の発想を自分のものにする姿、他者から触発された事柄について新たに自分の発想を引き出して活動する姿など、互いに影響を及ぼし合っている姿であった。)活動終了後学習シートに活動を振り返り、絵や文章で思いを表現している姿、など。
イ.遊びによって育つことが見込める力(一般論)
 一方、丸野俊一によれば、遊びがもたらすであろう「体験世界」とそこで期待できる「育つ力」の内容は次のようなものである10)。
「a.諸感覚を通した感性や感動を育む体験、b.具体的なモノの操作を通したモノの概念形成および道具の発見・製作体験、c.現実と虚構の往来を通してもたらされる想像力を育む体験、d.問題状況への挑戦の結果としての成功や失敗体験(この体験は、認知面での問題解決能力および気力・忍耐力などの精神面での問題解決能力をもたらす可能性を含む。)、e.感情的なやりとりを通した喜怒哀楽やいたわりの精神を育む体験、f.約束ごとやルール・規範にかかわるやりとりから社会性や自主性を育む体験」
ウ.「遊び」のなかの「学び」
両者(木村の見取りと一般論)を比べてみると、私が「見取った」実際の子どもの姿の中に、一般論として育つことが見込める力を見いだすことができる。例えば、「砂団子や型抜き・川作り・滝作り」の活動は、砂や水の性質を知り(モノの概念形成)、さらにスコップやホースの正しい使い方を知って(道具の発見)はじめて可能となる。「ごっこ遊び」は、イマジネーションの世界を広げ、想像(=創造)力を育む契機であろうし、「仲間と共に進める活動」は自主性や社会性を育む契機となるであろう。
 このように、教師は、遊びの中で子どもたちがどのような「学び」を育んでいるのかを明らかにし、それを保護者や地域に向かって説明する必要がある。それは、幼児教育の世界では「放任」とはき違えられやすい「自由遊び」の重要性を説くことになる。一方、小学校教育では、「活動あって学びなし」という生活科や総合的な学習への批判に応えるものとなろう。さらに言えば、このことは、「遊び」と「学び」の関係、ひいては「学びの連続性」を子どもの具体的な姿から語るという、幼小連携の本質的な課題に応えることにもなるのである11)。
生活科や総合的な学習に対する「逆風」のなか、私たちには、「生活科・総合的な学習本来の学びの中身」さらには「その学びの必要性」について、具体的な子どもの姿をもとに説明責任を果たすことが求められている。

2.子どもの全人的理解に基づく学力観 〜生活科の研究手法と研修の在り方への提案〜

前節では、子どもの遊ぶ姿からその学びや育ちを特定する試みが具体的に行われた。しかし、子どもが活動に没頭している(遊び活動を含む)姿から、子どもの「体験世界」を想像・予測し、子どもの内面に育っているもの(=学び)を洞察し、推測するという作業は、多くの教師にとって容易なことではないと思われる。子どもの体験世界を理解し、「内面の育ち」を読みとるための、教師の課題とはどういうものであろうか。
 まず、学力観を問い直す必要がある。子どもひいては人間を「全人的に」捉え、全人的な力を「学力(=学びとられた力のみならず、これから学ぶことのできる力や学ぼうとする意欲も含め)」として認めることが重要である。教師は、「包括的な学びの成立」を「学習の成立」とみなす学力観をもつ必要がある。
 これを実効あるものにするためには、従来の「仮説検証型」実践研究では限界がある、と私は考えている。「仮説検証型」実践では、はじめから子どもを見る窓口が狭く限定されている。つまり、立てた「仮説(〜すれば、…であろう)」という窓からのみ子どもを見ることに終始してしまいがちである。そのはてには、「仮説」にとって都合のよいデータのみを採用することで、めでたく「検証」されたとする「胡散臭い」「予定調和的な」報告書をよく目にする。これでは、教師自身の力量形成にも貢献できたとは考えられず、ましてやその成果が子どもの学習や成長に生かされる実践研究であるとも考えられない。「義務感のみに支えられた研究発表・公開研究」という実態はないだろうか。
 そうではなく、子どもを様々な角度・視野から多角的・多面的に理解しようとする「羅生門的接近」(「羅生門的アプローチ」と呼ばれることもある。)が、生活科・総合的学習の研究手法にはふさわしい。この「羅生門的接近」とは、一見風変わりなネーミングのように思えるが、これは、アメリカ・イリノイ大学のアトキン教授(当時)が、黒澤明監督の映画「羅生門」を観て思いついた名称であるという。羅生門という門は一つしかないわけだが、前から見たときの見え方、後ろに回って見たときの姿、上に登って下を覗いたときに見える見え方等々、見る場所や角度によってその姿が異なることを象徴している。
 「羅生門的接近」の内容は次の通りである。
 「羅生門的接近」とは、一般目標(方向目標)を設定し、個々具体的で特殊な目標を設定せずに教育活動を実践し、その実践を可能な限り多様な視点から、可能な限り詳しく記述する。その記録をもとに、一般目標(方向目標)がどこまで実現されたかを包括的に判断し、次の教授・学習過程に生かそうとするやり方である。その意味で、「羅生門的接近」は全体論的(wholistic)なアプローチである12)。また、このような考え方と手法に基づけば、「研修」においては、ある子どもに関するあらゆる情報が各教員から提供され、その情報についての見解を出し合って、その子どもの総合的な「子ども理解」が議論の中心に据えられることになる。このような「研修」では、情報収集の在り方と情報に基づく子ども理解のありようが話し合われることになる。そのことを通して、教師の子ども理解の力量が形成されることが期待できる。これは、すでに「羅生門的接近」にもとづいて研修を行っている小学校の協議会に参加した経験からも確信を持って言えることである13)。
 一方、「羅生門的接近」に対して「工学的接近」というカリキュラム開発の手法がある。これは、先に述べた「仮説検証型」実践研究に通じるものである。なぜなら、そこでは、特殊目標が設定され、その目標にふさわしい教材や方法が選択され、テスト等による測定可能な方法で特殊目標に照らした評価が行われる。はっきりした「到達目標」が特定されている場合は、このようなやり方も有効であると考えられる。
 要は、実践研究の方法論について「羅生門的接近」「工学的接近」の二通りのやり方が考えられ、自分たちの研究テーマにとってはどちらがよりふさわしいのか、あるいは、混在させることが可能なのかについて検討する必要がある、ということである。ここでは、生活科・総合的な学習(いずれも一般目標・方向目標を中心に据える必要のある教科と時間である。)に関して、従来の「仮説検証型=工学的接近」よりも「羅生門的接近」というアプローチによる実践研究の方法とその考え方に基づく研修の方を提案したい、ということである。
 子どもをトータルに理解すること、それは、@教師のねらい(付けたい力)とのすりあわせにもとづく理解、A一人ひとりの子どもの以前の姿とのすりあわせにもとづく理解、B今日の姿の可能な限り多面的な情報にもとづく理解、これらを総合して子どもの「育ち」の方向性を確かめながら理解することである。生活科や総合的な学習においては、@Aはもちろん、Bが特に重要であると私は考えている。結論はやはり「はじめに子ども理解あり」である。
ところで、平成14年2月、各教科の「評価規準」について内容ごとの「具体の評価規準」が示された。生活科についても8つの内容についての評価規準が示され、同時に単元評価の事例も具体的に示された14)。周知のように、評価規準とは、教育目標を「子どもの具体的な姿」で示したものである。ここでは、教師が、子どもをよく「見取り」、トータルな子ども理解を行ったうえで、今どの水準にあるのかを判断して評価することが想定されていると思われる。しかしながら、この「想定」が崩れたとき、つまり教師が子どもをトータルに見取りきれていないとしたら、「評価規準」は、「仮説検証型」研究における「仮説」のような「限られた窓口」になってしまわないかと、私は危惧している。その意味では、せっかくの絶対評価の切り札も、「両刃の剣」になってしまうのではないかと怖れている。

3.教師の「見取り」の力量形成 〜文字化することの意味〜

 多面的な子ども理解を実現するために、尾身先生は、子どもの観察記録・子どもの発言記録・こどもの学習シートという3つの記録から子どもを総合的に見取り、「学びの成立」を判断していた。教師は、「内面の育ち」を判断するために、判断材料をたくさん用意する必要がある。とりわけ、学習シートあるいは作文の内容から子どもの内面の育ちを読みとる力が教師に求められている。
 活動を振り返り、文字化することは、子どもにとって「学びの自覚化・意識化」を促す。既に述べたように、生活科や総合的な学習では、学びの内容は子どもに任せられると考えられるが、子どもの内面における「意識化」は教師との共同作業と言える。教師による子どもの学びの意識化の前に、子ども自身の「意識化」が必要である。その意識化にとっては「文字化」という作業が、活動をある程度冷静かつ客観的に振り返ることのできる有効な手段である。そのうえで、その「学び」を子どもに自覚・意識させることが教師の本質的な役割である。

おわりに−学校教育の変革のために

 生活科の課題を敷衍させてゆくと、学校教育全体の課題が見えてくる。本文の中で、「はじめに子どもあり」の発想が重要であることを強調してきたが、その「子ども」というものをどう理解するのか、これまでの理解の仕方に問題はなかったのかという「子ども理解の質」が、今、ますます問われている。
 本文において縷々述べてきたことからも明らかなように、我が国の学校教育の変革のためには、教師の「子ども理解」の力量を高めることが必須要件なのである。

1)平成16年1月24日付朝日新聞他、この報道は、「平成13年度小中学校教育課程 実施状況調査教科別報告書」に基づいたものである。調査結果の詳細は、文部科学省教 育課程課・幼稚園教育課『初等教育資料 平成15年7月号』pp.113-136.を参照のこと。
2)拙著『生活科の新生を求めて〜幼小連携から総合的な学習まで〜』(日本文教出版  2003)pp.141-147.
3)生きる力を含めた学力の構造については、新潟県教育委員会が提唱している「ABC 学力論」を参考にしてほしい。新潟県教育委員会義務教育課HP参照。
4)拙著p.188.
5)万羽晴夫「共感に問われるもの(上)」(『教育 No.431』[国土社 1983])p.124.
6)竹内常一『子どもの自分くずしと自分つくり』(東京大学出版会 1987)pp.41-53.参 照。
7)中野重人「『そろえる』教育から『ちがえる』 教育へ」(授業づくりネットワーク No.113』  [学事出版 1996.9.]pp.11-15.所収)参照
8)例えば、ルソーは言う。「貧乏人は教育する 必要がない」(Jean-Jacques Rousseau、"Emile、 ou de L'Education" GARNIER 1964 p.27. 邦訳:今野一雄訳『エミール 上 』<岩波 文庫 1964> p.53.)と。誤解されてはいけないので、 若干の注釈を加えたい。このル ソーの言葉は、「貧しい人々 は、日々の労働によって自分の日常の糧を創り出している ので、それ以上の、『不自然な教育』を与える必要などない。貧しいということはそれ だけで『自然な』教育作用をもつものであり、理想の教育がそこにはある。」という意 味である。従って、これは、「不自然な」教育を施さざるを得ない「金持ち階級」に対 する「貧しい人々((=当時の場合、ほとんどが農民)」への礼賛の言葉である。
9)拙著p.227.
10)丸野俊一「遊び体験がはぐくむもの」(『児童心理 '95.9』pp.26-34.所収)
11)拙稿「学びの連続性−幼小の相互理解のために−」(全国国公立幼稚園長会編『幼稚 園じほう 平成16年2月号』)pp.12-18. 
12)文部省大臣官房調査統計課『カリキュラム開発の課題 カリキュラム開発に関する国 際セミナー報告書』(昭和50年2月)「第4章 カリキュラム開発における教授・学習 過程と評価」pp.47-57.
13)上越市立高志小学校『超開発研究 脱ピラミッド』(2002)参照。
14)国立教育政策研究所教育課程研究センター『評価規準の作成、評価方法の工夫改善の ための参考資料(小学校)−評価規準、評価方法の研究開発(報告)−』(平成14年 2月)「第5章 生活」pp.123-135.